建築史1-1

建築史1のレポート一発目。さっき見たら添削が帰ってきていた。あざす。

以下は提出分。

 

建築史Ⅰ 第1課題(1540字) 2020年11月5日


大仏様と禅宗

本稿では日本の中世寺院建築の主要な様式である大仏様、禅宗様についてまとめる。

 


・大仏様

 治承4年(1180年)に平重衡による焼き討ちを受けた東大寺は、大勧進職に就任した俊乗房重源によって復興事業が進み、建久6年(1195年)に大仏殿が完成した。この建物に見られた様式は大仏様と呼ばれる。重源は3度の入宋経験があり、福建省近辺の様式を実見参照したものと推定される。この様式の特徴は以下のようになる。


 貫・肘木等のい柱を貫通する部材を多用して、軸部を水平方向に固める。

 挿し肘木を重ねて軒の荷重を支える。

 柱を貫通した部材の先端に木鼻を作り、その上部や下部に繰形を付ける。

 柱を貫通して交差する部材の継ぎ手・仕口に発達した工夫が見られる。

 断面形状が円形の虹梁を用い、虹梁の下端に錫杖彫りを施す。

 断面形状が円形の束を虹梁上にのせて柱を省略する。

 組物の間に遊離尾垂木を用いて小屋の荷重を支える。

 野小屋を作らず、垂木の勾配をかえて屋弛みを作る。

 隅の垂木を扇状に配る。中央は平行に配る。

 垂木の先端に鼻隠板を打つ。

 扉に桟唐戸を用い、扉の軸を藁座で受ける。


 このような意匠的特徴で作られた大仏様建築では、以下のような問題をクリアする。

 地震等の水平方向への力に対して、平安時代以前の建築物では太い柱の自立性に頼って支えていた。これに対して大仏様では貫が柱同士を水平方向に組み固めることによって耐力を得ている。

 京都・奈良地方ではこの時代までに大材を用いた建物が多数造られたこともあって、大木が少なくなっていた。大仏様では継ぎ手や仕口の工夫により材同士を継いで用い、また円形の部材を用いることで、長い部材・太い部材が節約できた。


 重源の手による仕事として代表的な東大寺本堂は永禄10年(1547年)に焼失したが、東大寺南大門と浄土寺浄土堂は現存して大仏様を伝えている。また方広寺大仏殿や、東福寺三門、東寺金堂等は造営の際、大仏様を参考にしている。

 構造上の大きな特徴である貫の使用や、細かな意匠上の特徴は重源の没してのち、13世紀以降の建物にも限定的に引き継がれたが、主要な意匠は従来の和様を基調としていたため、この時代の建物は新和様と呼ばれている。

 

禅宗


 12世紀末、栄西によってもたらされた禅宗では、得宗政権や室町幕府の支援を受けて発展する中で、その宗教的拠点として数多くの建物が造られた。それ以前の時代の和様とは大きく異なるその建築様式は禅宗様と呼ばれる。

 そのさきがけとなったのは北条時頼によって建立された建長寺である。この建物は南宋・元時代の中国五山寺院を参照したものと推定され、ここで用いられた様式がその後、鎌倉を中心に広がったとみられる。


 一重裳階付きの形式をもつ。

 各部を構成する部材の木柄が細く、全体的に繊細な意匠をもつ。

 内部に組物や梁等の架構を意匠としてみせる。

 頭貫の上に台輪を置き、その上に横に広がりをもつ組物を詰組に置く。

 主体部の柱と裳階の柱を海老虹梁でつなぐ

 粽付の柱を礎盤の上に置き、床は土間(瓦・石・せん等を敷く)とする。

 母屋の天井を縁のない鏡天井とし、庇は化粧屋根裏とする。

 軒に扇垂木を用い、屋根は強い反りをもつ。

 欄間に波型の連子、窓に花頭窓、扉に藁座で受けた桟唐戸を用い、壁を竪板張りとする。

 その他細部の特徴として、尾垂木の強い反り、肘木の円弧曲線・水繰、虹梁の袖切・欠眉・錫杖彫り、木鼻・実肘木・持送等の繰形や渦文。


 この様式の代表的なものとして、上記の建長寺のほか、安楽寺三重塔や功山寺仏殿等がある。 

 中山道山陽道といった交通ルートの整備によって禅宗様は各地へと普及した。大仏様や和様、さまざまな技法・工法も同じように広く普及展開し、それらの要素が適宜取り入れられた折衷様の建物が全国各地に多く残されている。